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歴史は面白い…


 

古都の山並みを「ゆるりと♪」歩く@鎌倉アルプス (5月18日)

山に向かう前に源頼朝公の墓所を拝観しました。

偶然、地元のボランティアの方が 墓前を掃除されていて

「PRがてら、(墓のことなどを) ちょっと説明させてください!」と、 ありがたいお申し出♪

聞けば、目に見えているお墓は、 ほんの一部ですが 実は、墓の後ろ側にある広大な山域全体が、 かつては巨大な墓陵のように扱われていたのだとか…

鎌倉時代(西暦1200年ごろ)から続く墓所ですが、現在の墓石は、江戸時代に建てられたものだそうで

調べてみたところ…寄進(再建)したのは、 薩摩・島津藩主の島津重豪(しげひで)なのだそうです

なぜに島津氏!?

実は、源頼朝公の墓所のすぐ近くには、頼朝の片腕といわれた大江広元やその子・毛利季光(毛利元就などに続く家系の始祖)

島津忠久 (薩摩島津氏の始祖、頼朝のご落胤との言い伝えあり)

さらに 三浦泰村一族の墓などがあります。

源氏三代の没後、 執権である北条家が強大な権勢を奮い 頼朝ゆかりの御家人達に対する圧力を強めました。

その象徴ともいえる戦乱が「宝治合戦」で 北条時頼 対 有力御家人・三浦泰村一族の構図。

この戦いで、毛利・島津両氏は、 懇意の三浦氏に組みしましたが、力及ばす…

最後は この頼朝公の墓所付近(法華堂)に立てこもり 壮絶な自刃を遂げたということです。

…が、その後…

毛利・島津両氏は、鎌倉~室町~江戸時代と 時には権力に寄りつつ、時にはそれに抗いつつ 脈々と存続したのは 皆様よくご存じのとおりです。

考えてみれば

やがて、宝治の戦から約600年後の時を経て

「明治維新を成し遂げる薩長同盟の祖」が こんなところに並んで眠っているなんて…

歴史は本当に面白い!!♪

頼朝公 墓所の裏側には 毛利・島津 両始祖のお墓へと続く山道が 人知れず、ひっそりと残っていました。

(※この道は一般の方は通行禁止です。 迂回ルートがありますので、そちらをご利用ください)

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